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古事記に魅せられて

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30.暦法の紀元表記と、日本の紀元節。 内海隆司

2019/04/19 (Fri) 12:47:07

太陽周期は夜昼の時間が同じになる日(春分・秋分)の太陽が昇る地(東)と沈む地(西)の地上の東西線の方位を定めることが基本です。春分日・秋分日の昼間の太陽軌道は確認できます。しかし夜間の太陽軌道は確認できません。そこで夜間の星座の動きで太陽軌道の近くで周る昴星を日神(夜間の太陽軌道神)に見立てます。太陽が昇る地(東)と沈む地(西)の地上の東西線は、春夏秋冬の季節により移動します。夏至の日の太陽が昇る地は東北に位置を変えており、夏至を過ぎると位置を真東の秋分点の地に引き返します。冬至の日の太陽が昇る地は東南に位置を変えており、冬至を過ぎると位置を真東の春分点の地に引き返します。この地上の太陽の昇る地(東)と沈む地(西)の移動周期の法則について、人類は早くから気が付いていたようです。
この暦の仕組の前提は夏・殷・周時代の5千年前から解っていました。太陽周期と月周期を観察して数値化したのが前漢時代の方術家(方士:方位学者)の唐都でした。彼は分其天部(太陽と月の循環と地上の方位)を分けて、前漢時代も夏・殷・周の時代も、(太陽と月の循環法則と地上の方位の移動法則)は同じだと説いたのです。それを暦に表記したのが巴の落下閎(前漢武帝時代の暦法の専門家)で運算転歴(星座軌道の運行時間を算出して暦に転算した)のです。そこで季節毎の一日の進度が判明しましたが、この暦算は(三千年前)の夏の時代の暦法と同じであったと司馬遷は述べています。
中国最初の元号設定による改暦を作成したのが司馬遷の太初暦です。中国の最初の元号は「建元」で、前漢の武帝即位日(紀元前141年1月1日)を建元1年に設定する暦を武帝の指示を受けて司馬遷が太初暦に纏めたものです。その後、元号の改暦は天文・暦法の進歩によって天体の運行と精緻なものとなり、今日では日食・月食は正確に予測出来るようになっています。中国では歴代王朝が変わり元号改暦を行っても、一貫して一日のズレもなく継続性が保たれています。それは暦の尺度表記が干支(10,12,30,60)で表記される基本形が有るからです。その基本は干支の60干支(60進数)で年数と月数、日数を累計し、月数の月齢は新月(朔日)を明記して何月に該当するかを判断させる表記法が基本にあるからです。
中国の元号は司馬遷が前漢の武帝の命令を受けて太初暦で定めました。日本の元号は天武天皇の西暦680年の詔(今日の閣議決定に相当)を受けて、日本書紀編纂者の暦専門役人(陰陽寮の暦職担当者)が40年の歳月をかけて紀元節に纏めたものでしょう。その時に陰陽寮の暦職の担当者は中国の暦書(古事記の旧辞・本辭)を研究していて、暦の循環数である1340年周期説を把握していたと思われます。天体の運行と整合する暦に合わせるには西暦680年の1340年前の紀元前660年に初代天皇の神武が即位したと、日本の紀元節を宣言したのでしょう。先代旧事本紀の皇孫本紀(巻六)はその解説です。

29.暦法の基本表記。 内海隆司

2019/04/12 (Fri) 09:59:16


暦表記は干支の10進数、12進数、30進数、60進数が基本概念で構成されています。日数、月数、年数を計測・計数化して暦表記されます。その日数、月数、年数の累積数は10進数(自然数)で計数値されます。太陽暦では1年は365.2425日と計測されて暦が設定されましたが、数百年経過すると実際の天体観測と日数にズレが生じて問題になりました。中国の太陰太陽暦では1年は384日の歳と354日の歳とがあり、閏月を19年間に7回設けて太陽周期に合わせます。生活サイクルは月齢が基本で30日単位です。太陰太陽暦での暦表記は干支の60干支(60進数)で年数と月数、日数を表記することを基本とします。月数の月齢は新月(朔日)を明記して何月に該当するかを知らせます。
太陽周期は夜昼の時間が同じになる日(春分・秋分)の太陽が昇る地(東)と沈む地(西)の地上の東西線の方位を定めることが基本になります。春分日・秋分日の昼間の太陽軌道は確認できますが、夜間の太陽軌道は確認できないため、夜間の星座の動きで太陽軌道の近くで周る昴星を日神(夜間の太陽軌道神)に見立てます。太陽が昇る地(東)と沈む地(西)の地上の東西線は、春夏秋冬の季節により移動します。夏至の日の太陽が昇る地は東北に位置を変えており、夏至を過ぎると位置を真東の秋分点の地に引き返します。冬至の日の太陽が昇る地は東南に位置を変えており、冬至を過ぎると位置を真東の春分点の地に引き返します。この地上の太陽の昇る地(東)と沈む地(西)の移動周期の法則について、人類は早くから気が付いていたようです。オーストラリアのアボジ族の石遺跡、5千年前のドイツの遺跡迹などです。日本でも先代旧事本紀などの記述から古代人は知っていたはずです。
暦の仕組の前提は夏・殷・周時代の5千年前から解っていました。太陽周期と月周期を観察して数値化したのが前漢時代の方術家(方士)の唐都でした。彼は分其天部(太陽と月の循環と地上の方位)を分けて、前漢時代も夏・殷・周の時代も、(太陽と月の循環法則と地上の方位の移動法則)は同じだと説いたのです。それを暦に表記したのが巴の落下閎(暦法の専門家)で運算転歴(星座軌道の運行時間を算出して暦に転算した)のです。そこで一日の進度が判明したが、この暦算は(三千年前)の夏の時代の暦法と同じであったと司馬遷は述べています。太初暦の説明です。
太初暦での暦表記は次の通りです。<漢文原典>十一月甲子朔旦冬至已詹。其更以七年為太初元年。この<解釈文>は、(前漢の武帝の即位から7年目)の十一月は甲子(干支年の)初年で、正月一日は新月(朔の日)で冬至の日に相当する。そこで武帝の即位後7年目の十一月一日は冬至の日に該当するので、太初元年正月に年号を改暦する。これが中国の最初の元号の改暦記述です。
改暦記述の表記法は元号何年の何月を表記して、その年月日が干支表記の年月日に整合するように関連付けています。暦表記は干支の60干支(60進数)で年数と月数、日数を表記します。月数の月齢は新月(朔日)を明記して何月に該当するかを知らせます。

28.日本の元号と中国の元号の整合性、継続性。 内海隆司

2019/04/10 (Wed) 17:37:16

先代旧事本紀は複雑な仕組を簡単なモデルに整理して、古事記と日本書紀の本質を説明しています。その目的は「天体観測と暦の仕組」、日本国の元号、歴史を定めることにあります。日本の国柄は2019年5月1日からの新年号「令和」でどう変わっていくのでしょうか。IT/ロボット化の進展する今後40年間の変動期の年号として注目されます。
新年号は万葉集巻五の815番歌から846番歌の「梅花の歌32首の序」に典拠していると政府発表されました。万葉集は西暦770年頃に編纂されたといわれています。凡そ120年間にわたる歌集だと言われ、万葉仮名の漢字表記の和歌が3756首収められています。但し「歌の表題と序文」は漢文での説明記述です。漢字原典とその訓読文は次の通りです。「梅花歌三二首幵序。天平二年正月十三日、莝于師老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅被鏡前之粉、蘭薫珮後之香・・・」。訓読文にすると、「師老(大伴旅人)の宅に莝(と)まりて、宴會で(歌)を申す。時に初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を被り、蘭は珮後の香を薫す」です。令月風和から「令和」としたとの説明です。令月とは「素晴らしい月」です。師とは大宰府の長官の大伴旅人で彼の歌會です。822番歌が旅人の次の歌です。「わが園に、梅の花散る、ひさかたの、天より雪の、流れ来るかも」。818番歌が山上憶良(筑紫の守)の次の歌です。「春されば、まず咲く宿の、梅の花、独り見つつや、春日暮らさむ」。師老之宅(旅人の館の大広間)での正月歌会の歌題は「梅花」で、31人が座って梅花の歌を順次に申した(披露した)。その序文が花鳥風月の記述でその最初の文です。
天平二年正月十三日の「天平」も日本の年号です。日本書紀で紀元節を定めたことで今日まで、中国の暦法とも整合性を保ち、日本で改元をしても継続性は保たれています。歴史的には文武天皇5年の「大宝」の改元(西暦701年)以降、今日の昭和、平成、令和まで絶えることなく暦の時間軸は同じ尺度で継続しています。明治6年(1873年)の改暦で西欧暦に日本は鞍替えしましたが、東洋諸国ではいち早く一番に西欧暦に改暦した国です。復、「大宝の改元」が西洋暦の世紀に標準が合っています。これは偶然の事でしょうか。
中国の元号は前漢の武帝の即位時に初めて「建元」と定めたと司馬遷の史記暦書は述べています。即位時は西暦前140年の辛丑の年です。<漢文原典>至今上即位、招到方士唐都、分其天部。而巴落下閎運算転歴。然後日辰之度、與夏正同、及改元、・・<訳文>今上(前漢の武帝)が即位されると、方士(方術家)の唐都を招到して、天の部位を分け、巴の落下閎が運算(星座軌道の運行時間を算出)して、暦に転算した。一日の進度が判明した。これは(三千年前)の夏の時代の暦法と同じである。そこで改元した。
この中国の暦の改元では暦表記はどのように表記されるのか。暦の時間軸の継続性は如何にして整合性を保っているのか。次回はその表記法について考察します。

27.異文化文明の翻訳はどのように為されたのか。 内海隆司

2019/04/07 (Sun) 21:11:59


日本の国柄は過去どのようにして引き継がれてきたのか。一口に国柄と言ってもその内容は時代の経過とともに様々です。「日本の国柄」を形成した源流が、天武朝・持統朝の改革にあったとすれば、律令制の法治国家の成立をもって「日本国」はスタートしたと言えます。日本書紀の編纂は「日本国」の歴史書を初めて公式に定め宣言したものです。そのためには「日本国」の紀元を定める必要がありました。復、日本国土と民族の在り様を定めて、内外に説明する必要がありました。その説明を神話の形で記述しているのが古事記と日本書紀の神話編であると言えます。ところがこれが解り難いのです。「日本の国柄」が「神國」であるかのように誤解されています。これは異文化文明の専門書を翻訳するときにおこる解釈の違いからくる誤解だと思われます。
古事記と日本書紀(記紀)は、天武朝・持統朝の専門家(インテリ)集団である役人たちの記紀にたいする発想が源流にあり、その後40年間の研究成果が古事記と日本書紀に結実したと考えられます。その発想の源流は「天体観測と暦の仕組」を解説し、日本国の元号を定めることにあり、それにより日本国の歴史、国柄を説明するものでした。それには中国の天文学、暦学の専門用語・専門概念の知見が必要です。それらの専門現象に神様名をつけて記述しています。そのような視点で読まないと記紀は誤解されるのです。記紀の本来の読解は、訓読文での理解では難しい面があります。漢字原典の一字一句を出てくる数字の意味も含めて全体の繋がりと脈絡で解釈する必要があります。先代旧事本紀は複雑な記紀の仕組を簡単なモデルに整理して、古事記と日本書紀の本質を説明しています。記紀は司馬遷の「史記八書」を参考にして系統立った書物になっています。しかし何故か先代旧事本紀は偽書として無視されています。
異文化文明の専門書を翻訳するときの解釈の苦労話については、杉田玄白等の翻訳した「解体新書」がよく知られています。日清戦争(1874年)の100年前にオランダ語の「ターヘル・アナトミア(人体解剖学説明書)」を苦心惨憺して翻訳出版しました。その苦労話を玄白が83歳の時に回想して1815年に「蘭学事始」にまとめ出版しました。西洋医学と東洋医学では文化文明の世界が異なります。その専門概念、専門用語が異なるため、蘭語―日本語の語学知識だけでは不十分で蘭語の医学専門知見(蘭学)が必要でした。このことは医学分野のみならず他の専門書の翻訳でも起こりうる苦心談だと思われます。杉田玄白も「蘭学事始」の記述中に、遣唐使が帰国報告で説明には苦心しただろうと述べています。日本には無い概念・専門用語を翻訳するには何を見て語っているかです。「解体新書」の場合は人体の解剖(腑分け)実験の報告書です。記紀では「天体観測と暦の仕組」です。
先代旧事本紀は複雑な仕組を簡単なモデルに整理して、古事記と日本書紀の本質を説明します。その目的は「天体観測と暦の仕組」、日本国の元号、歴史を定めることにあります。

26.日本の国柄はどのように造られたのか。 内海隆司

2019/03/31 (Sun) 20:35:31

日本の国柄は過去どのようにして引き継がれてきたのか。国の危機(敗戦体験)をキーワードにして考察すると、最初の国の敗戦体験は「白村江の大敗(西暦663年)」でした。唐の脅威を乗り越えるために「日本の国柄」を形成した源流が記紀時代(西暦700年前後の50年間)に在ったと考えられます。次は鎌倉時代の元寇襲来です。中国の元帝国の脅威の対応策で日本国は国柄を戦国封建社会へと変成していきました。江戸時代の海外通商貿易制限下の日本は太平の封建社会を謳歌していましたが、米国ペリー来航(1854年)以来、西欧近代化の脅威に抗しきれず、明治維新で通商開国に舵を切り替えました。明治政府は富国強兵策で40年後の日露戦争後の1905年頃には西欧先進国に肩を並べるまでに国柄を変えました。その40年後の1945年の敗戦国日本は廃墟と化した国柄から奇跡的に復興を成し遂げました。そして40年後の1985年には一人当たりGDP(国内総生産額)では米国を追い抜いたとまで言われました。しかし、40年後の2025年には超高齢化・少子化社会のピーク到来で今後の「国柄」をどう変えるかに直面しています。
一口に国柄と言ってもその内容は時代の経過とともに様々です。「日本の国柄」を形成した源流が、天武朝・持統朝の改革にあったとすれば、律令制の法治国家の成立をもって「日本国」はスタートしたと言えます。日本書紀の編纂は「日本国」の歴史書を初めて公式に定め宣言したものです。そのためには「日本国」の紀元を定める必要がありました。復、日本国土と民族の在り様を定めて、内外に説明する必要がありました。その説明を神話の形で記述しているのが古事記と日本書紀の神話編であると言えます。ところがこれが解り難いのです。「日本の国柄」が「神國」であるかのように誤解されるからです。
実際に中国の旧唐書倭国傳を読むと、遣唐使が中国の役人に日本書紀の神話編で「日本の国柄」を説明したときに、そのように誤解された形跡が読み取れます。そこで対唐外交上の立場からその誤解を解き、日本書紀の真意を説明する書籍の編纂が国内的・対外的に必要とされたと思われます。それが先代旧事本紀の編纂です。先代旧事本紀は古事記と日本書紀(記紀)の本質を説いています。天武朝・持統朝の専門家(インテリ)集団である役人たちの記紀にたいする発想が源流にあり、その後40年間の研究成果が古事記と日本書紀に結実しました。結実した古事記と日本書紀の読解は、訓読文での理解では難しい面があり様々な解釈を生んでいます。先代旧事本紀は平安初期に編纂されたとされています。平安初期の遣唐使に役立った書物だと推察できるのは、中国の新唐書日本傳に日本書紀の記述が反映しているからです。しかし何故か先代旧事本紀は偽書として無視されています。
先代旧事本紀は複雑な仕組を簡単なモデルに整理して、古事記と日本書紀の本質を説明しています。「日本の国柄」になる原型モデルが描かれているというのが著者の見立てです。「先代旧事本紀は偽書か」内海隆司著、Kindle書籍(上巻・下巻)はそれを説いています。

25.日本は楽観的展望で発展できる。 内海隆司

2019/03/27 (Wed) 07:47:07


家庭経済生活を悲観的風潮から楽観的風潮に変えるためにはどうすればよいのでしょうか。それには、①借金体質を容認する年金・医療・介護の高福祉給付、低負担支出(国債借金での穴埋め)のマヤカシを長期間かけて取り除くことです。➁それには低負担支出(国債借金での穴埋め)の消費税負担を毎年、1%又は0.5%づつ引上げて財政健全化をはかることです。③それにより毎年のインフレが助成され、デフレ脱却を可能にします。④復、青年に大志を抱かせる仕組を造り(新規創業への支援策など)若者を支援することも必要です。⑤すべては自助努力、自活・自立の自己実現意欲が前提です。健全な家庭、家族がすべての礎(いしずえ)であることの確認が大切です。
大家族制度から核家族制度に急激に変わったことで様々な社会問題を引き起こし、悲観的風潮に陥っています。核家族制度に相応しい社会システムの構築を目指す時代に我々は生きています。経済優先の価値基準で家庭経済・社会経済を営むと、損得勘定(感情)が優先する弊害に陥る可能性が高まります。心が荒んだ社会風潮を産み出しています
高度成長経済期の弊害からの脱却は、生活の価値基準を低成長経済期の現実に合わせることです。既に現実社会はそのような方向で動いています。人口減少による総需要は頭打ちとなり、規格大量生産の供給量の拡大は期待できなくなった結果、各分野の供給量の質の重視・充実にこだわることで活路を見出しつつあります。製品のデザインを良くするとか、個性的な特徴で付加価値をつけて高価格でも売れる製品開発などでの対応です。復、日本国内では頭打ちなら海外展開で活路を生み出すという動きです。現在は5年前、10年前には無かった職種が続々と生まれてきています。
健全な家庭、家族がすべての礎(いしずえ)であることは、核家族化された家庭でも同じです。その礎になるのがその家庭の生業(安定収入が持続的に得られる就職・就業)です。脱農業社会になった明治近代化以来、今日の情報価値社会の生業は高度の知見が求められる職種になっており、高度な教育・研修・鍛錬を必要としています。日本には量的に高学歴者を多く輩出する学校教育システムが既にあります。モノ作りに習熟した大企業-中小企業連携の社会システムも全国的に既にあります。これまでは高度経済成長期のもとで量の拡大基調であった社会システムを、質的充実基調にギアを切り替える時期にきています。
国の借金体質を早く脱却すべきであり、さすれば、各人が使命感のもてる社会の居場所を、各人の自助努力、自活・自立の自己実現意欲で達成が可能です。若者が志を持って各分野で活躍できる楽観的な風潮の社会は、国民一人一人の人材の育成・鍛錬に由来しています。要は各人の能力を信じ楽観的な風潮の社会にしていくことです。日本には過去に敗戦から立ち直ってきた歴史があり、それは「日本の国柄」にもなっているのです。一段と「国柄」を変革する時期に我々は生きています。悲観的になる必要はないのです。

24.明治時代は楽観志向国家であった 内海隆司

2019/03/25 (Mon) 15:03:01


 弱者への目配りは必要ですが、8割以上の個人的には無借金生活者である健全な国民が、高福祉・低負担の医療・介護制度のもとで膨大な借金生活に加担しているのが日本です。借金生活は弱者への入り口で格差を生む温床だと言われています。家族の借金生活は支援依存症に陥る確率が高く、自助努力、自活・自立の家族を破壊する可能性もあります。高福祉給付を望むのなら、それ相応な税負担(消費税増税)は覚悟すべきですが、それが弱者への負担増になるという迷論?で、実現が先送りされているのが現状です。
 今年で1868年の明治維新後150年が経過しました。明治初期の改革は自助努力・自主自立が基本にある西欧近代化主義を受け入れるものでした。明治6年(1873年)は西欧暦への改暦、士農工商の身分制度廃止、国民徴兵制度、廃藩置県、教育制度の整備(小学校の義務化など)を定めた工業近代化の分水嶺の年でした。国民一人一人に公平・公正を旨とした法的義務を課し、国民国家として自助努力・自主自立を奨励する改革でした。
 改革実現の原動力になったのが中村正直の翻訳書「西国立志編」(1871年)でした。英国のS・スマイルズ著のSelf-Help(自助論)を中村正直が翻訳紹介しました。彼は語学に堪能で漢籍にも造詣の深い教育者でした。当時のインテリ層は彼の著書を熱心に読み大ベストセラー(百万部数)になりました。明治期の精神的原動力である自助努力、自活・自立の自己実現を奨励し、青年に大志を抱かせた著作だと言われています。
 現在の支援依存の借金体質を容認する風潮の時代とは対極の時代が明治期でした。明治の前半期に少年期を過ごし、その後半期に結婚した世代の子育ての考え方は、大家族制度のもとで、子供一人一人に自活する教育を授け、社会に役立つ子育ての慶び、「子は宝」という風潮が有りました。それは殖産興業の近代工業化が進み、高所得階層の家族に「子供を多く持つ喜び」を実現させました。この時代は司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いているように、家庭生活は楽観的な風潮の社会であったようです。子供は4人以上という家庭が大勢で、出生率も高い状況でした。
しかし、現在では核家族化がすすみ「子育ての負担」が過重化しており、家庭生活は子育てには悲観的で、将来不安が先行する風潮にあります。このような風潮を打開する方策はあるのでしょうか。悲観的な風潮の社会から楽観的な風潮の社会に移行するためのモデルの構築が求められています。核家族化がすすむ変動期にあって、その社会の仕組について様々な試行錯誤が始まったばかりです。核家族化された家庭生活を楽観的な風潮に還る社会システムの構築は、新時代(IT/ロボット化社会)のチャレンジです。 チャレンジあるところには志がもてます。明治時代の「工業化価値」に対して、現代はIT/ロボット化社会の「情報化価値」の時代です。「情報化価値」を産み出すのは人間力(教育力)の高さです。日本には希望が持てる潜在力が備わっています。楽観志向でチャレンジすべきです。

23.日本は自助努力国家に戻るべきです。 内海隆司

2019/03/22 (Fri) 09:59:36


医療・介護の資金調達と給付(受取・サービス)の在り方は、医療技術の進歩で高齢者の寿命が延びた百歳寿命社会の基本的課題です。北欧社会国の年金・医療・介護制度は高福祉給付・高負担のもとで運営されています。消費税は20%以上を負担して維持されています。日本は高福祉給付・低負担(消費税は8%)での運営です。高福祉給付を国債発行(借金)で穴埋めしているので国民一人一人は、借金国家の国民生活者になっているのです。後期高齢者は個人的には健全な無借金生活者です。しかし国民生活者の立場に立つと借金生活者(次世代への借金遺産者)に陥って、次世代に負担を負わせているのです。
国で稼ぐGDP(国民総生産)の200%以上の国家予算で日本国は運営されているようです。年金・医療・介護の支出が国家予算の75%を占め、それを際限なく国債発行(借金)で背伸びをした生活を国民に押しつけています。200%以上の国家予算で運営している国は、国家破綻したギリシャと日本国だけです。極めて不健全な国民生活者に陥っているのです。
日本の敗戦直後の国家予算は200%を超えていたと言われていますが、現在の国家予算は240%超ということです。敗戦直後の財政破綻を日本政府は、貨幣通貨の切り下げ(新円発行)と戦費国債の返済放棄で切り抜けました。それを可能にしたのは財閥解体と、大地主から農地を没収し、農地耕作権を持つ小作人に農地所有権者にする農地改革を行ったことで、金持ち富裕層の所有する国債を無効にしました。それは一般大衆が所有する国債の返済放棄を納得・諦めさせる効果がありました。これにより日本は敗戦国ながら国家破綻は免れました。これは国土を破壊尽くされた敗戦国民が経済的に立ち直る契機でした。
財閥解体と農地改革に手をつけずに、弱者である一般大衆に戦費国債を負わせた借金を放棄させることは困難であったと想像されます。明治維新の頃と同様に敗戦時日本は既得権益の平準化の分水嶺であったようです。何時の時代でも社会的弱者への配慮は必要です。社会的弱者が増えると社会不安が拡がり悲観的風潮の社会になります。
そこで社会的弱者の救済にも目配りが必要です。独居家族が増えている変動期の課題にも注目すべきです。年金制度の改正に伴い勤労者国民の夫婦は一人一人が年金メンバーに組み入れられました。年金受給者として独立家計を営む仕組みに変わって核家族化が進み、独居家族が増えました。この40-50年間で大家族制度から核家族化制度に変わったのです。人間は集団(大家族内)で子育てや老人介護をする動物だと言われています。シングルマザーの子育てには無理があり、母子共に社会的弱者に追いやる確率が高いのです。独居老人の場合も同じです。貧困問題、犯罪の温床にも複雑に関与してきます。その本質を見極めることが極めて重要です。起こった現象を表面的な対処療法ではなく、問題の本質を取り除く長期的な仕組の制度設計(モデル化)が求められます。これは新しいチャレンジです。

22.借金国は破綻する。 内海隆司

2019/03/19 (Tue) 15:04:13


天から授かった天孫である20歳以下の未就業の次世代の若者に、膨大な借金を相続させる仕組みで生活しているのが現在の日本社会です。健全な生活者は借金をしてまで背伸びした贅沢は望みません。身の丈に合った生活を守るのが常識とされていますが、これが国家レベルでは明らかに背伸びをした超借金国家のもとで日本国民は身の丈以上の生活に安住しているようです。
日本国民の一人一人は勤勉な生活者です。復、政治家・官僚・役人を「お上」と称して、一定の信頼を寄せて「お任せ」を決め込んでいる風潮があります。具体的に「わが身に降りかかって来ない課題」には関心は寄せないで他人事と考えています。しかし年金・医療・介護の資金だけで国家予算の75%を占める枠組みのなかで国民生活を送っている現実は他人事では済まされない課題です。
日本は超長寿社会を実現したフロントランナーです。その長寿者の多くは戦後生まれの2025年に長寿者(75歳以上)入りする団塊世代で、高学歴の社会的に鍛錬された世代層です。1945年の敗戦時に小学生であった世代が、親の介護を終えて自分が介護を受ける番になった途端に課題が指摘されだしました。年金・医療・介護の財政負担が「孫世代にツケが廻る仕組」を生み出しているという指摘です。年金・医療・介護の必要資金は、その世代が積み立てた資金枠の範囲内で、無借金で運営管理すべきです。
しかし、いつの時からか「賦課方式」という都合の良い概念を採り入れた為に問題が顕在化しました。年金・医療・介護の給付(受取・サービス)は現役社会人が、40年間に自己負担した積立資金の枠内で制度設計されたものであれば、無借金の健全な運営です。40年間の社会人が、現役を卒業し年金で自活して生活をする場合でも、現役世代の積立資金に手をつけることは「禁じ手」のはずです。「賦課方式」は保険の概念の中で生み出されたマヤカシです。国債発行(借金)を国民の貯蓄額を担保に節度ある枠内で運営するのであれば問題にはなりません。しかし高福祉、低負担を実現するために際限のない借金(国債増)をするとなると、それはマヤカシです。それが何故か罷り通っています。「賦課方式」という概念の悪用です。世代間の不公平感を生み出し、年金制度に不安感を醸成している元凶です。
国で稼ぐGDP(国民総生産)の200%以上の国家予算で日本国は運営されているようです。200%以上の国家予算で運営している国は、国家破綻したギリシャと日本国だけだと言われています。高福祉給付を国債発行(借金)で穴埋めしているので国民一人一人は、借金国家の国民生活者になっているのです。後期高齢者は個人的には健全な無借金生活者です。しかし国民生活者の立場に立つと借金生活者(次世代への借金遺産者)に陥っているのです。何故こんな不合理が起こったのでしょうか。

21.日本は教育大国を目指すべき。 内海隆司

2019/03/16 (Sat) 15:47:04


天から授かった天孫である20歳以下の未就業の次世代の若者が、就活時期を迎える頃の就職先は、現在には存在せず今後興隆してくる業種であることは確実です。IT/ロボット化が進展する地球規模の変動期においても、どのような変化にも対応できる基礎教育の研修・鍛錬が若者だけではなく、全世代に求められます。百歳寿命時代に相応しい基礎教育は①読み、➁書き、③そろばん、の中身を大きく変えていきます。①読み書きは漢字だけではなく国際化の進展で英語が必須です。➁算盤は計数的能力です。実務的で数学的な整理能力です。③産業育成には情報専門技術(情報リテラシー)の基礎教育の更新が必要です。④電子工学の専門基礎教育も更新され続けています。⑤バイオテクノロジーの専門基礎教育も必要です。多様に変化する社会では旧来の知識では役立たず「学び直しの仕組」を制度化することが必要とされています。
日本は世界から尊敬される教育大国を目指すべきです。多積する世界の課題、日本の課題、地域の課題、家族の課題、個人の課題を解決するためには、それぞれの人間力が問われます。人間力は①知育、➁徳育(他人との交わり方の修練)、③体育(身体と心)の鍛練で高まります。人間力の鍛錬は一生涯続くのです。子々孫々引き継いでいく課題です。個人の人間力、家族の人間力、地域(私企業・公益企業、任意団体)の人間力、日本の人間力が高まるならば世界の課題を解決する先頭(フロントランナー)として歩むことも夢ではない。まずは魁より始めることでしょうか。個人の自己責任、家族の自己責任、地域(私企業・公益企業)の自己責任と輪を拡げていくことを地道に続けていくことが求められます。
日本は超長寿社会を実現したフロントランナーです。その長寿者の多くは戦後生まれの2025年に長寿者(75歳以上)入りする団塊世代で高学歴の社会的に鍛錬された世代層です。1945年の敗戦時に小学生であった世代が、親の介護を終えて自分が介護を受ける番になった途端に課題が指摘されています。それは年金・医療・介護の財政負担が「孫世代にツケが廻る仕組」を生み出している現状です。多くの長寿者は高学歴保持者で自活能力に長けています。この長寿者を教育・研修事業で活かすべきです。次世代の天孫が逞しく社会で活躍できるための人材育成活動に学校教員者と協業して取り組む。この様な教育の制度改革が必要です。さすれば日本は教育大国のフロントランナーになりえます。産・学・官の協業を地域社会のため家族の絆のためにジジババの高齢者が立ち上がる時が到来しています。
教育・研修基金を創設し教育振興資金を還流する仕組みを法整備するのも選択肢です。高齢者は資産保有者です。その資金を寄付控除などの税制で基金に還流させる。教育基金への寄付者には感謝状をだすなどで表彰する。貧窮する学生に希望をもたらす仕組の充実策です。高学歴者の育成が社会に役立つ人材育成に結びつくかは個人の自覚の問題領域です。学歴だけで自己鍛錬を怠る社会人は戦力にはなりません。それはいつの時代も同じです。


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